第17話 過去と、未来と……

 しとしとと雨が降っている。傘をさして歩くのは黒川夜彦やひこ先生──俺の最愛のひと。
 その隣には俺。先生に買ってもらったばかりの下駄が雨で濡れてしまうのが嫌だとむくれてみせれば、先生は困ったように笑って俺の頭を撫でてくれた。

「紫陽花が綺麗です、先生」
「ああ、今年は色も良い。雨の中で見る紫陽花は生き生きと輝いて見えるな」
「先生も晴れの日よりは曇りや雨の方が生き生きしていますね」
「だから紫陽花に親近感が湧くのかもな」
 そう言って照れ臭そうに笑う先生が、俺は堪らなく好きだった。

 ──文机の前に座った先生が、俺の目を真っ直ぐに見て言った。

「俺はもう長いことないらしい。体ん中が鬼に蝕まれているそうだ」
 俺はきちんと正座をして先生の話を聞いていた。感情が思考に追いつかなかった。
 体が鬼に蝕まれるなど、まるで先生の書く怪綺談だ。原稿用紙を丸めて捨てればその中の鬼は消える。ならば一体どうすれば先生の中の鬼を退治できるだろう。

「いつまでも一緒だと誓った癖に、先に逝くことになって済まない」
「いいえ、夜彦先生」

 葉巻の匂いが、庭の紫陽花に溶けてゆく──

「いつまでも一緒です。先生と行く黄泉路ならば、俺は喜んでお供します」
黎助れいすけ……」

 *

 俺と先生はベッドに向かい合って座り、互いの手を強く握りしめながら目を閉じた。
 俺の中に「彼」が入って来るのが分かる。乗っ取りではなく、あくまでも前回の時のような一時的な憑依だ。
 その上で意識として残った「俺」が、先生の中の御先祖を探る。

 守護霊ならばすぐに見つかるが、自殺した魂は守護霊にはなれない。加えて二百年前の御先祖だ。全霊感を集中させて、微かな手がかりを片っ端から探るしかない。

「先生……」
 黎助が俺の口を借りて、彼の名前を呼ぶ。
「夜彦先生……」
 俺の中の感覚に「それ」が触れた瞬間、ふっとどこか懐かしい匂いがした。

 そして──

「……黎助か……?」
「夜彦先生……?」

 開いた視界に映っていたのは、俺の最愛のひと──黒川夜彦先生。あの頃と同じ照れ臭そうな表情で俺を見つめ、優しく微笑んでくれている。

「先生っ……!」
 大粒の涙が零れ、頬を伝い落ちてゆく。
 俺は先生に思い切りしがみつき、二百年前と少しも変わらないこの愛しい匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

「随分と待たせてしまったな。済まなかった、黎助」
「いいえ、いいえ──こうして会えた喜びで、これまでの寂しさなど全て消し飛んでしまいました」
 先生が俺の頬に触れる。額に優しく口付けられる。今、確かに俺達は触れ合っている──。

「黎助、……」
 俺の名前を呼ぶ低い声。肌を愛撫する優しい指、唇。
 葉巻と紫陽花、原稿用紙の匂い。
「あ、あぁ……先生っ、……」
 全てが愛おしくて切なくて、嬉しいのに涙が止まらない。

「もう二度と離れない。永遠に一緒だ、黎助……」
 俺の中を貫く感触も全てあの頃のままだ。体そのものの匂いも、熱も、先生の真剣な眼差しも。
「ん、んっ……嬉し、……愛しています、夜彦先生……!」
 この気持ちも、何一つ変わっていない。

 もう何も恐くない。先生に似た匂いを探すこともない。
 輪廻に向けて進むとしても、永劫の闇を彷徨うとしても、俺の隣には先生がいる。傘をさした先生と手を繋ぎ、買ってもらったばかりの下駄が汚れるとむくれながら。

 紫陽花の花の前で──二人、永遠に。

「あ、……」

 ──ありがとう、黎人。

 *

 意識が戻った時には、もう夜が明けかけていた。
「……せ、先生っ? 大丈夫ですか、起きてくださいっ!」
「んん……黎人……」
 ベッドの上に倒れていた先生が薄く目を開け、俺を見つめる。そのだるそうな眼差しも癖の強い黒髪も、いつもの夜城先生だ。
「良かった……」
 ホッとして胸を撫で下ろしたその時、先生の伸ばされた両腕が俺の体を強く抱きしめた。

「ど、どうしたんですか先生っ……?」
「……訳が分からねえけど、お前と離れたくねえって急に思えてきて……」
 そう言って俺の胸に顔を埋め、子供のようにしがみついてくる先生。さっきまで御先祖に体を貸して黎助を抱いていたことは、どうやら覚えていないみたいだった。

「先生。俺達、前世でも一緒だったのかもしれませんね」
「……黎人」
「そして多分、後世でも一緒なんだと思います。お互い離れたくないって思いが強過ぎて、どの時代でも惹かれ合っちゃうんですね」

 そうだったら素敵だなと思うし、そうかもしれないと確信めいたものが芽生えたのはやはり俺達の御先祖──夜彦先生と黎助の間にあった確かな愛情のお陰だ。

「先生」
 そうしてこの気持ちも、俺と夜城先生の間に存在する「確かな愛」。あの二人は二百年後も互いを求め合っていた。それなら今を生きている俺達が一つになりたい欲求を持ったところで、何もおかしなことなんてない。
「黎人……」
「ん」
 強く抱き合ってベッドに沈んでゆき、重ねた唇の間で激しく舌が絡み合う。自然と溢れ出た涙は先生の指がそっと消し去ってくれた。

「あ、あぁ……」
 とっくに脱がされた服はベッドの下へ。俺と先生は裸で互いに触れ合い、口付け合い、囁き合う。何にも代え難いかけがえのないひと時。大好きな先生を、もっともっと大好きになる瞬間。

「んあ、あ……気持ちいいです先生、指……奥まで……あっ」
「綺麗だぜ黎人。前世も後世も含めて、俺が唯一愛した男だ」
「そん、なこと……言われたら、あぁっ……。もっと欲しくなって……!」

 パソコンでもワープロでも原稿用紙でも、これまで幾つもの物語を生み出してきた先生の指が、今は俺の中を緩くかき回している。直接触れられてもいないのにペニスは痛いほど硬くなって、腹の中がきゅんきゅんしてしまう。俺の身体中が先生を求めているのだ。

「挿れるぞ黎人、我慢できそうにねえ」
「お、俺も……早く欲しいです、先生っ……。俺の中に全部、……!」
 大きく開いた股の間に先生の腰が入ってきた瞬間、俺達は抱き合い文字通り一つになった状態で深く深く繋がった。

「あぁっ!」
 俺の中で脈動する先生の命そのものが、一突きごとに熱を増してゆく。指と指は永劫の愛を誓うように絡み合い、吐息と吐息、視線と視線さえも混じり合ってゆく。

 最高の愛が、これから先も、輪廻を経た後も約束されている。
 こんなに幸せなことってあるだろうか。

 *

「あー、腰がいてぇ……めちゃくちゃ張り切った……」
「お、俺も……もう立てません……」
「しかし例の幽霊、一目見たかったな……。黎人にそっくりだったんだろうな」
「そこまで似てませんよ。何代前かの御先祖かも分かりませんし、俺でさえ初めて見た時は全く気付かなかったんですから。向こうは生前の記憶が殆どなくて、普通に俺のこと知らなかったみたいですけど」

 俺の先生はホラー作家だ。
 だけど、本人に霊感は全然ない。

「黎人は俺の祖先を見たんだろ。どうだった」
「うーん、ベースは先生ですけど……ちょっと照れ屋で優しそうでした」
「優しそうじゃなくて悪かったな」
「一途なのは変わらないですよ、先生も御先祖様も」

 だからいつの時代も俺が先生の傍にいて、どの時代の俺も常に先生にベタ惚れしている。
 振り回されることもあって、うんざりすることもあって、だけど俺にしかできない方法で先生の力になって──それが何よりも嬉しくて。

「大好きですよ、夜城先生」
「俺もよ、黎人」

 生まれつきの霊感に悩んだり怯えたりする日もあったけれど、今ならはっきりと分かる。

「明日は何するかなぁ」
「久々に外デートしたいです! あの車で」
「んじゃ、行き先考えといてくれ」
「はい!」

 それは先生と二人、手を繋いで人生を歩いて行くためなのだ。

 俺と先生のあまあまホラーな同棲せいかつ!・終