「おはようございます……」
「おはよう。朝から元気ないじゃない、どうしたの?」
 俺のテンションが低いのに目ざとく気付いた大野さんが、椅子ごと俺に近付いて来た。
 デスクが隣同士なんだから、それ以上近寄らなくたっていいのに。そんなに俺、いつもと様子が違うのかな。
「寝不足? それとも、具合悪い?」
「い、いえ。大丈夫です」
「一人が体調悪いと他のスタッフにも迷惑かかるの。子供じゃないんだから自己管理はきちんとしなきゃね」
 仰る通りだ。俺が抜けたらその分の仕事は他の人がすることになる。仲間のフォローをしようなんて口では言いながらも、肚の中では、余計な仕事を増やしやがってと毒づかれる羽目になる。ただでさえ居心地が悪いのに、これ以上マイナスな方には進みたくない。

「じゃあ早速、日報の売上入力お願い。今日こそミスに気を付けてね」
「分かりました……」
 あくびが出そうになるのを何とか堪え、自分のパソコンを起動させる。百通以上のメールが全て受信されるのを待ちながら、ぼんやりと頭の中で呟いた。
 ――ああ、また昨日と同じ今日が始まったのか。
 この感じ、いつから続いてるだろう。もうだいぶ前からずっと「今日が終わらない」という、まるで悪夢から抜け出せないような感覚が脳に纏わりついている。

「飯島君、顔暗い。もっと楽しそうに仕事しなよ。朝からこんなこと言いたくないけどさ」
「……はい」
 逆に聞くけどどうして大野さんはいつでも元気なんだろう? 仕事の内容なんて毎日同じことの繰り返しなのに、一瞬たりとも面倒臭そうな顔をしない。与えられた仕事に黙々と取り組むのは俺と同じだけど、俺と彼女は仕事に対する思いが根本から違っているみたいだ。
「飯島君、日報が届いてない店舗には電話して、すぐメールで寄越すように言ってね」
 返事をしようとしたその時、目の前の電話が鳴った。反射的に受話器を取る。

「お電話ありがとうございます、株式会社ブルーウィンドで――」
〈そちらの会社は店員にどんな教育してんの?〉
 相手の怒号めいた声に、俺は内心溜息をついた。クレームの電話だ。朝から大凶を引いた気分になる。
〈昨日、鷹見店で若い女の店員に声かけたら面倒臭そうに睨まれたんだけど。何も買わずに帰ったけど、どうしても許せなくて電話したんです〉
「大変申し訳ございませんでした……」
 これまでクレームを受ける度に何度となく吐いてきた台詞を、精一杯の声色を使って言う。
 店舗数が多いと、店員の態度が悪いという苦情も増える。いくら研修で接客態度について説明されても、若いスタッフなどはその日の気分で態度に浮き沈みが出るから、全てを改善することなんて不可能なのだ。

「鷹見店のスタッフには厳重に注意、指導を致します。不快な思いをさせてしまって申し訳ございません」
〈あなた、名前は〉
「飯島と申します」
〈鷹見店に確認したら、どうなったかすぐ電話を寄越して下さい。番号は――〉
 引き寄せたメモ帳にペンを走らせた後、もう一度謝って受話器を置いた。
 共用の携帯で鷹見店に電話をかける。
〈お疲れ様です、鷹見店の日村です〉
「お疲れ様です。システム管理の飯島と申しますけど――」
 苦情の内容を伝えると、今年で確か三十歳になる日村店長が慌てた様子で「すぐ確認します」と言い、しばらく待たされた後、再び通話口に戻ってきた。

〈すいません、スタッフに確認したんですが、何かコンタクトを落としたとかで、お客さんの姿を確認するために目を細めたらしいんですよ。だから睨んだ訳じゃありません〉
 そんな馬鹿な話があるかと思った。鷹見店の接客態度の苦情は今月でもう三件目だ。毎回この日村店長は、苦情の対象が若い女子スタッフだと変な男気を出して庇いたがる。本社の誰もがそれを知っていた。
「そうだったんですか。でもお客様が相当怒ってらして……」
〈そういう勘違いって困りますよね。でも実際悪気は全くなかったってことで〉
「………」
 それが本当の話ならば確かにこの件、誰のせいでも無いのかもしれない。だけど客にしてみれば店員の視力の良し悪しなんて分かるはずがないのだから、立場上「悪気はなくて」で済む話ではない。

「了解しました。……一応こういうクレームがあった訳なので、これから注意お願いします」
〈だから悪くないんだよね、うちは〉
 横柄な口調で言われて腹が立った。つい語気が荒くなってしまう。
「客が不快になったのは事実でしょうが。悪い悪くないとかの話じゃなくて、事実として受け止めて下さいっ!」
 相手が黙ったのを機に、失礼しますと言って通話を切った。これ以上話していたら、怒りに任せてもっと汚い言葉を使ってしまいそうだった。

「大変だね、飯島君」
 大野さんの言葉に適当に相槌を打ち、俺はボタンを壊す勢いでさっきメモした客の番号をプッシュした。そんな俺を誰もが無言で見ている。「こえぇ」という呟きが事務所の奥の方で聞こえた。
「先ほどお電話頂いた、株式会社ブルーウィンドの飯島と申しますが――」
 勿論、コンタクトがどうのといった話は出来ない。鷹見店に注意をしてスタッフも反省しているという旨を伝え、それでも怒りが収まらない客に何度も謝り、ようやく受話器を置いた時には既に最初の電話から一時間が経過していた。
 システムの人間だけでなく、周りの連中全員が終始黙っていた。興味の無いふりをしつつ、俺の話す内容を耳を欹てて聞いていたのだ。自分に害が及ばないなら、クレーム対応ほど面白い話はない。

 その時ふと、これが俺の日常なんだと実感した。
 長時間パソコンと向かい合って黙々と仕事をし、理不尽なことがあってもひたすら我慢し、それが終われば解放感を体全体で味わって、うきうきしながら帰宅する。定時に帰れた日なんて最高だ。途中DVDを借りて、コンビニでビールと弁当を買って、風呂に入って飯を食って、存分にだらだらした後、布団に潜って朝まで眠る。
 毎日それの繰り返しだけどそれが普通の人間の日常であって、今現在日本にいる社会人の過半数以上がそんな暮らしを送っているはずだ。

 俺が混一に執着するのは、そんな退屈な日常からただ逃げ出したいだけなんじゃないだろうか。定時に起きて電車に乗って出勤するという、社会人なら当前のことに一切縛られていない混一を羨ましがっているだけなんじゃないだろうか……。
 俺は普通でありたくないと、社会に対して無意味につっぱっているだけなのかもしれない。
 混一に会えば一時的でも日常から抜け出せた気分になれる。彼の持つ不思議な世界に触れられる。普通に暮らしていたら決して踏み入ることのない、魅力的な非日常の世界。だから俺は混一に憧れているのかもしれない。
 非日常を体験した後の日常は、更に退屈でつまらないものになっているというのに――。

「大野さん、売上報告まとめ終わりました。プリントアウトしてきます」
「はい、了解。それ終わったら昼前の一服、してきていいよ」
 A4サイズの報告書がプリンターから吐き出されたのを確認し、それを部長デスクの後ろにあるコルクボードに張り付ける。そのままボード横のドアからベランダに出て煙草を咥え、俺は十月の青空を見上げた。
 混一、今頃はまだ寝てるだろうな。

「お疲れ、飯島君」
「あ、部長。お疲れ様です」
「疲れてないよ。君と違ってやる気あるから」
「はあ」
「言い返せないのか? 全く、若いんだからシャキッとしろ、シャキッと」
 面倒なクレーム処理をした後、更に部長に怒られると思うとうんざりしてくる。
「そんなんじゃ、イベント店舗のヘルプに行った時に雑用しかやらせてもらえないぞ。良い経験になればと思って送るのに、何の意味も無いじゃないか」
 俺が別会社の店舗経験があることは、既に部長に忘れられている。だから店舗のヘルプに行ったところで、現場の人間も俺をただの本社スタッフとしか見ていないから邪魔者扱いされるのは当然だ。
 俺自身も昔、例えば正月の初売りなどで本社からヘルプに来てくれた人達を「どうせろくに動けないんだから余計なことするなよ」の目で見ていたことを思い出す。あの視線を、今度は俺が受けることになるのか。

「俺が君の齢の時にはなぁ……」
 しかしせっかくの一服休憩なのに、部長の小言や自分語りを聞かされるなんて堪らない。俺はまだ半分以上残った煙草を灰皿に押し付けてドアを開けた。
「す、すいません部長。大野さんが呼んでるみたいなんで、戻ります」
「全く、悠長に煙草なんか吸ってないで大野君を少しは見習え! ……君がこうしてる間にも給料は発生してるんだからな、そう思えば――」
「失礼します……」
 逃げるようにしてデスクに戻ると、品番別の売上内容を入力しながら大野さんが「早かったね」と目を丸くさせて言った。
「……ああ、部長に絡まれそうになったの? 話半分で聞いてあげれば満足するんだから、付き合ってあげればいいのに」
「いえ、何の話をしてても結局は俺が怒られるんですから、早いうちに退散しようと思って」
「部長って、若い男の子を目の敵にしてるところがあるからね」
 冗談めかして言う大野さんに愛想笑いを返しながら、俺は仕入れ予定表のファイルを手元に引き寄せた。

 正直言って俺は昔から出来が良い方じゃなかったから、怒られるのには慣れている。学生時代だって、月に二、三度は些細な悪さをしたのがバレて職員室に呼び出され、他の教師や生徒がいる中で散々怒鳴られ続けてきた。
 学生時代に精神は鍛えられたつもりでいた。だけどこの会社に入ってからというもの、俺の心はあの頃よりも軟弱になっていることに気付く。
 大野さんの指摘にビクつき、部長の小言に神経をすり減らしている。更には一見無害に思えるその他のスタッフ達も、俺にとってはストレスの原因となっていた。

 見た目が怖い、不良っぽいなどといった陰口を、勤め始めの頃に耳にしたことがある。だから俺は元々焦げ茶程度だった髪の色を更に黒くし、服も地味で無難な物にし、気に入っていたシルバーのピアスも外すようにした。少しでもまともな外見になるよう、好きな物を自分の体から排除してきた。しかしだからと言って気さくに話しかけて貰えることはなく、今度は体がでかくて怖いとか、目付きが悪いとか、今更どうにもならないことを言われるようになった。
 つまるところ、俺と彼らはタイプが全く違うのだ。正直言って、学生時代の同じ教室に今の彼らがいたとしたら、俺は多分声なんてかけないと思うし存在すら気にしないと思う。それは向こうも同じだろう。
 だけど今はお互い社会人なのだから、タイプが違うから仲良くできないなんて言ってる場合じゃない。
 そう思って初めのうちは何とか誤解を解こうと躍起になっていたけれど、今ではもうどうでもよくなってしまっていた。「俺はお前達とは違うから」と心の中で毒づくことで、この疎外感から何とか目を背けているのだ。

 今日のストレスは翌日に持ち越され、毒のように少しずつ体内に蓄積されて行く。膨れ上がったストレスを発散させる場も、悩みを打ち明け合う仲間も無い。
 働き始めてまだ半年。そのたった半年の間に、俺は自分でも嫌になるほど自信の無い男になってしまっていた。
「………」
 こんな俺に優しくしてくれるのは混一だけだ。
 例え金で繋がっているだけの関係でも、一人の男として認めてもらえるのは今の俺にとって本当に有り難いことだった。ストレスなんて微塵も感じられない混一の控えめな笑顔の前でだけ、俺はありのままの自分をさらけ出せる。
 そういう場所って、結構大事なんじゃないだろうか。