勇星の過去と祈りの歌

 五年前──期待に胸を膨らませて踏んだイタリアの地。目にするもの全てが新鮮で、拭く風も心地好く、歴史を感じさせる街は勇星の足を軽やかに進めていた。
 両親の教えに独学で身に付けた音楽の知識が、この国でどこまで通用するかは分からない。だけど、音楽への愛と情熱だけは誰にも負けないと思っていた。自分と同じ夢や情熱を抱く仲間達と出会い、刺激し合い、新たな音を聴き、奏で、触れるのが楽しみだった。

 アルヴァーロ・トリエステ交響楽団──。
 イタリアで有名な音楽家が立ち上げた歴史ある楽団。その指揮者が引退するため、新たな後継者を一般から募るというニュースを目にした勇星は、一も二もなく書類を送った。何の実績も学歴もなかったが、一緒に送ったディスクを聞いた審査員の一人が「是非会ってみたい」と返事をくれた。

「頑張ってくれよ、勇星。君が持つ指揮者としての才能は、僕が保証する」
 ローマのドミトリーで知り合い意気投合して以来、勇星に住む場所を格安で貸してくれていた気の良い友人。名前はカルロ、勇星と同い年で彼もまた音楽を愛する青年だった。

 コンテストに必要なのは「自作の曲」。勇星はそれに『speranzaスペランツァ』という希望を綴った曲を選んだ。本当は『Genesi』を完成させたかったが、それには時間が足りな過ぎたのだ。

「指揮者候補の人が夜道で暴漢に襲われたって。……偶然かな。怖いね」
 夕食後、カルロが新聞に載っていた小さな記事を勇星に見せて言った。
「念のために勇星も気を付けてよ」
「大丈夫だ。万が一襲われても、五人以下なら勝てる自信あるし」
「五人以上だったら?」
「ダッシュで逃げる」
 カルロが笑って新聞を閉じ、勇星の頭を軽く叩く。
「どっちにしろ気を付けて。その才能が潰されるのは、この国にとっても日本にとっても大きな損失だ」
「買い被り過ぎ。ていうか俺なんて眼中にねえって、存在すら知られてねえだろうよ」

 アルヴァーロ・トリエステ交響楽団の次期指揮者候補は、多くは有名な音大の生徒達や、そこを卒業し様々な楽団で指揮者としての活動を行なっている者たちが殆どだった。亡くなった両親はその楽団員や現指揮者とも面識があったが、勇星はそれを伏せていた。過激な連中から目を付けられることと、それによる面倒事を防ぐためだ。ただ、空島の姓で楽団の審査員には知られていたかもしれない。だからこそ書類を見た審査員から「会ってみたい」と言ってもらえたのだと思う。

 勇星はピザとパスタと酒を楽しみ、たまには町の小さな教会で伴奏をした。カルロはカトリックだったから同じ教会には通わなかったが、礼拝とは別に聖堂の見学ができるというので一緒に見に行ったことはある。
 ステンドグラスが美しい聖堂だった。漂う空気は厳かで凛としていた。信徒たちが跪いて祈りを捧げる中、勇星はある一枚の絵の前で立ち止まった。

『Sandalphon Direttore del cielo』

 あまり上手いとは言えない絵なのは、信徒が描いたものだからだとカルロが言った。だけど勇星はその絵に目を、心を奪われた。暇ができれば聖堂へ行き、絵の前で自分自身を見つめ直した。時には感謝し、両親を想い、椅子を用意して座り込み、曲を作った。