二階へ続くアパートの外階段を上りながら大きく息を吸い込む。少し開いている台所の窓からカレーの匂いが漂ってきて、頬が緩んだ。

「ただいま、翔宇」

「おう、おかえり響希。ていうか超早くねえ? まさかのチェンジか?」

 部屋着姿の翔宇が台所で鍋をかき混ぜている。カレーのいい匂い。心の中にポッと明かりが灯ったような、優しい気持ちが広がってゆく。

「俺がチェンジ喰らう訳ねえだろ。ウケ強要されたから、こっちから拒否ってきたんだ」

「うわ。それは災難だったな、お疲れさん。カレーもう少しでできるから、軽くシャワー浴びれば?」

「そうする」

 熱心に鍋をかき混ぜる翔宇の背中を見つめながら、俺は服を脱いで浴室に向かった。

 落ち着く──。翔宇が部屋にいてくれるだけで、本当に心が休まる。例え翔宇の気持ちが零に向いていても構わない。ずっとこの部屋で、翔宇と一緒に暮らせるなら。

 念入りにシャワーを浴びて汗を流し、口の中を濯ぎまくった。あの客の体液がほんの少しでも残ってる中で翔宇のカレーを食うなんて、絶対に嫌だった。

 歯を磨いてから脱衣所にあった服を着てリビングに戻ると、テーブルの上にカレーが二つ並べられていた。

「詩音特製のシーフードカレーなのだ。冷めないうちにどうぞ、流星様」

「うむ」

 床に正座して仰々しくスプーンを差し出してくる翔宇に、俺も笑って応える。

「いただきます」

 相変わらず翔宇の作る料理は美味い。

 カレーを頬張りながら、俺はついさっきの出来事について愚痴をこぼした。

「今日の客に言われたんだ。タチもウケもできるようになれば、もっと仕事が増えるって。だから手伝ってやるって。大きなお世話だと思わねえか?」

「なるほどな。まぁでも、確かにその客の言うことは一理あるわ。両方できれば仕事の幅も広がるし、今よりもっと稼げるようになるとは思うんだよな。実際零なんかはタチウケ両方やってるから、あれだけいい部屋に住めてる訳だし」

 翔宇が苦笑しながら言った。俺だってそうは思うけど、無理なものは無理なんだから仕方ない。金はないよりあった方がいいに決まってるのかもしれないが、俺は別に、今の生活に満足している。

 何よりも、金のためにプライドまで捨てたくはない。それは翔宇だって同じのはずだ。

「特に響希って、パッと見はウケ顔だもんな。ぶっちゃけ俺でさえたまにムラっとくるよ、君の顔は」

「ウケ顔ってなんだよ、意味分からん」

「ほら、なんか若いアイドルグループみたいなやつ。歌って踊るようなのいるじゃん」

「俺センター? 売れてる?」

「いや、お前は一番端っこ。そんで踊りもワンテンポ遅れてんの。でも本人は天然だから、全く気付いてねえの。みんな大迷惑」

「可愛いじゃねえか」

「とにかくそんなんだ、ウケ顔って。響希は見た目ウケできそうだもん、第一印象で勘違いする客もいるだろうよ」

「……人を見た目で判断するのは良くないって、ガキの頃母ちゃんが言ってた」

 ふて腐れたように言ってカレーを頬張ると、翔宇がスプーンの先を俺に向けて言った。

「響希の母ちゃん、教育熱心だったもんなぁ。日曜とか遊びに行くのも一苦労だったよな」

「ん。塾と書道と空手と英会話と……あと何やらされてたっけな」

「バイオリン?」

「それは弟」

「でもさ、そんだけ金かけて習い事させて、今は売り専やってるなんて母ちゃんにバレたら殺されんじゃねえの? 雑誌とかネットに顔出してて大丈夫なのか?」

「ウチの家族は死んでもそんなの見ねえよ。それに、地元出てもう四年も経つんだぜ。さすがに俺のことは諦めてるだろ」

「そうかねぇ。響希の母ちゃん、響希のこと溺愛してたもんな……」

 四年前、逃げるようにして翔宇と始発電車に飛び乗った日のことを思い出した。

 大学の推薦を全て蹴った時もかなり激怒されたが、卒業したら東京に行くと言った時の母親の怒り方はそれ以上に凄まじかった。好きなようにやらせてやれと言ってくれた親父も俺と同じくらい引っ叩かれていたし、八坂家史上最大の修羅場だったと思う。

 俺としてはその時ついでにゲイであることをカミングアウトするつもりでいたけど、とてもそんなことを言い出せる状況じゃなかった。

 ──あの朝、車内で翔宇と身を寄せ合って眠る俺の鞄の中で、鬼のようにスマホが鳴っていた。東京に来て一番最初にしたことが端末の解約だったっけ。今はその罪滅ぼしのためにも、親父の口座を通して実家に毎月仕送りしている。そろそろ弟の大学受験に役立つ頃かもしれない。

「たぶん俺、響希の母ちゃんに嫌われまくってるぞ。母ちゃんから大事な響希を奪ったようなモンだ」

「弟の話ではだいぶ落ち着いてきたらしいけどな。売り専あがったら一度帰ってみてもいいんだけど、今はまださすがに気まずい」

「響希。中学ん時の花火大会の日のこと、覚えてるか?」

 ふいに翔宇が呟いて、俺はスプーンを握っていた手を止めた。