狼も犬も蚊帳の外!

 矢代家の庭は薄桃色に包まれていた。
 春──。どこか物悲しく、それでいて何かを期待してしまうような、不思議な季節。

 夕凪は縁側に腰を下ろし、屋敷の庭に咲き乱れる桜の木々を見つめていた。矢代家の頭首が五代目になってからこの桜を見るのは初めてだ。今年は、特に美しい。
「暖かくて眠くなる」
 夕凪の隣で頭を振っているのは、矢代家五代目頭首・矢代夜霧の弟であり、同時に嫁でもある朱月だ。当然法的には結婚も婚約もしていないが、頭首が彼を「嫁」と宣言したのだから、問答無用でその時から彼は頭首の嫁である。


「自室で昼寝をされますか、朱月様」
「いいよ、もうすぐ夜霧も帰って来るだろうし」
 朱月が子供の頃から世話役として傍にいた夕凪にとって、彼は我が子も同然だった。真面目で芯の強い朱月は夕凪の宝だった。たまに突拍子もないことをしでかすため常に目が離せないのは、子供の頃から変わっていない。
 頭首の夜霧と結ばれてからの朱月は以前より大人っぽく、また艶っぽくなった。世間知らずで参拝の作法すら知らなかった頃と比べれば別人のようだ。


 ──夜霧に相応しい男にならないとだから。
 去年の秋にそんなことを言っていた。根が真面目なこともあり、それからの朱月は頭首の嫁という肩書きに劣らないほどの猛勉強をし、またこの丑が原村のために頭首を支え、奮闘していた。
 我が子の成長ぶりほど見ていて楽しいものはない。
 夕凪は口元を軽く緩め、こくり、こくりと船を漕ぎ始めた朱月の手からそっと湯呑みを取った。

 それから程なくして、馴染みあるメルセデスのエンジン音が遠くから聞こえてきた。湯呑みを床に置き立ち上がった夕凪は、庭に広がる薄桃色の向こう側──屋敷の外へと目を凝らす。予定していた時間より少し早いが、頭首が帰って来たらしい。
 主の帰宅を受けて開いた門の音。続いてエンジンが止まる音、……運転席のドアが開き、閉まる音。
 夕凪は朱月の肩をそっと揺すった。
「夜霧様がお戻りになりましたよ」
「ん、……ああ、ありがとう」


 眠たげな目を擦りながら朱月が庭へ下り、夕凪は一瞬ふらついたその体を後ろから支える。こうして帰宅した夜霧を出迎えるのも朱月の重要な仕事だった。嫁の姿が見えないと途端に不機嫌になる我儘な頭首だから、朱月自身も眠気を堪えて行かなくてはならない。
「おかえり、夜霧」
「お帰りなさいませ、夜霧様」
 車から降りてきた頭首の夜霧は「ああ」といつもと同じ返事をし、朱月の顔を見ずにその頭へと軽く手を乗せた。
「嵐雪。俺は夕方の会合まで仮眠を取る、誰も部屋に入れるな」
「承知致しました」
「行くぞ、朱月」
 屋敷へ入る夜霧の姿が見えなくなってから、嵐雪と夕凪は垂れていた頭を同時に持ち上げた。


「ただいま、夕凪」
 夜霧の前では一時も表情を崩さない嵐雪が、夕凪の顔を見て意味ありげに笑った。
「ああ」
「それだけか。夜霧様みたいな返事するなよ」
「それよりも、どうだった。その、……幼稚園の運動会というのは」
 幼稚園の運動会。感情のないサイボーグ気質な夕凪の口から出たその言葉に、嵐雪は思わず苦笑する。


「ああ、ばっちりだ。競技スケジュールは決まったし、当日のバスの本数も増やすことになった。笹上から有志で出す昼飯のメニューも問題ない。俺達の役目は午後からの『鬼ごっこ』に決定だ」
「そうか。……いや、何だその『鬼ごっこ』というのは」
 夕凪の嫌な予感を、嵐雪が現実にする。
「余興だよ。2チームに分かれて、子供らが五分間逃げ回る。俺とお前がそれぞれのチームの鬼役だから、まあまあ加減して追い回してやればいい」
「俺の分を春雷に回すことはできないのか」
「春雷は斗箴様と一緒に昼飯の係だ。まあ、代わるのは無理だろうな」
「………」
 夕凪は表情には出さず、内心でその場にうずくまった。見ず知らずの子供の相手など、自分が一番不得意としているものだ。当日は子供達の微笑ましい奮闘姿を眺めているだけで済むと思い込んでいた分、嵐雪が持ち帰った「仕事」は悪い意味で衝撃的だった。


「第一、俺達のような輩が子供を追い回すなど。絵的にも良くないだろう」
「当日は私服で参加すればいいだろ。まさかこのスーツ姿で出ると思ってたのか?」
「墨はどうする」
「隠せばいいじゃねえか。……夕凪、これは夜霧様の決定だからな。逃げられねえぞ」
 悪意に満ちた嵐雪の笑みを受け、夕凪はそこで初めて舌打ちした。