第16話

 ……それから何があったのかは覚えていない。気が付くと俺は、暗い部屋の中で倒れていた。

 頭が痛む。体中がだるくて力が入らない。鎮静剤のようなものでも打たれたか。

 ゆっくりと上体を起こして部屋の中を見回した。床が畳敷きになっていることは感触で分かるが、明かりがないためにそれ以上のことは分からない。

 やがて暗闇に目が慣れてきて、徐々に俺がいる部屋の輪郭が見えてきた。

 部屋の隅にトイレがある。まさかと思って正面を向くと、薄らと棒状の物が並んでいるのが見えた。床から真っ直ぐに生えたその棒は、それぞれ天井まで繋がっている。それほど太い物ではないが、棒と棒の間に生じた隙間はかなり狭い。腕を出すのが精一杯だ。

 牢獄──。

 瞬時に理解した。俺は親父に逆らって牢に入れられたんだ。体の力が一気に抜け、俺は床に座り込んだ。……まさかここまでやるとは。

「………」

 今、何時なんだろう。窓も時計もないこの牢では今が夜なのか朝なのかも分からない。腹が減っていないことを思えば、案外ここに閉じ込められた直後なのかもしれなかった。

 横になり、ジーンズのポケットに手を入れていつか神社で買ったお守りを取り出す。

「……俺は、間違ったことはしていない」

 お守りを見つめながら口に出して言った。だから、この先何が待ち受けていようと怖くなんかないと覚悟したつもりだった。

 それからどのくらい時間が経過しただろうか。いつの間にか眠っていたらしいのだが、再び目が覚めた時も相変わらず辺りは暗闇のままで愕然とした。

「……ん」

 静寂が耳に付くほどの静けさだ。そんな中、遠くの方から微かな音が聞こえてきた。一定の間隔で聞こえるそれはどうやら足音のようだ。段々と音がはっきり聞こえてくるにつれて心臓が高鳴り、俺は部屋の隅に体を寄せて息を顰めた。

 足音が止まった。

 格子の向こう側、何もない真っ暗な空間に縦に一本、光の筋ができる。その正体は襖が開けられたことで牢内に漏れ入ってきた外の明かりだった。

「だ、誰だ? 親父……?」

 相手の顔まではよく見えない。俺は反射的に中腰の体勢になり、いつでも相手に対応できるよう気を張った。

「……夕凪です、朱月様」

「ゆ、夕凪っ?」

 後ろ手に襖を閉めた夕凪が手にしていた洋燈ランプに火を点ける。すぐにぼんやりとオレンジがかった明かりが灯り、夕凪の顔を優しく照らし出した。ゆっくりと暗闇の中を洋燈片手に近付いてくる夕凪の様子は普段と全く変わらない。一先ず、安心した。

「……今、部屋の明かりを点けます」

 夕凪が壁に向かって手を伸ばした直後、俺の頭上が明るくなった。とは言っても豆電球ほどの明かりで光量は夕凪が持っている洋燈と大差ないが、暗闇よりは断然良い。

「朱月様、お怪我はされていませんか。具合は悪くありませんか」

「大丈夫。……心細かったから、夕凪が来てくれて嬉しい」

「差し入れです。表向きには俺の軽食用として、お凛に握り飯を作ってもらいました」

「あ、ありがとう」

 夕凪は片手にぶら下げていたビニール袋を格子の隙間から俺に差し出し、近場にあった椅子をひいてそれに座った。

「……夕凪、この場所って一体何なんだ?」

「頭首に背いた者、矢代家に害を成す者が入れられる座敷牢です。本家の地下にあるということは知ってましたが、俺も初めて入りました」

 なるほど……俺にぴったりの場所ということか。
 夕凪が続けた。

「ここ数十年は手入れもされずに放置されていましたが、矢代家がこの村で権力を持ち出した明治の頃は頻繁に使われていたそうです」

「………」

「狭く暗い座敷牢で飲まず食わずで過ごしていると、次第に幻聴が聞こえ始め、幻覚や発作など様々な症状が出てくるそうです。閉じ込められた曲者はゆっくりと狂って行き、飢えと苦しみと恐怖の中で……やがて果てたそうですよ」

「お……俺のこと、怖がらせようとしてる?」

「いえ。差し入れと、この牢にまつわる話をしに来ただけです。──朱月様、すぐにオヤジに謝罪して下さい。この差し入れもオヤジに知れたら大変なことになります。下手な意地を張っていたらすぐにこの牢に精神を奪われてしまいますよ。一刻も早くここを出るんです」

 親父に謝罪……俺が間違っていたと認めろということか。そんなこと、絶対にしたくない。

「嫌だ」

「朱月様」

「俺は間違ったことを言ったつもりはない。こんな所に閉じ込められたからって、簡単に自分の意見を変えられない……」

「形だけの謝罪で良いのです。それでオヤジの気が済むんですから」

 無言でかぶりを振る俺を見た夕凪が、溜息をついて椅子から立ち上がった。

「今はまだ興奮されてますからね。もう少し落ち着かれた頃に、また来ます」

 頭上の明かりが消されて、俺は再び闇の中に取り残された。

「……絶対に謝らない」

 決意したものの、これから一体どうなるんだろう。向こうは俺が意地を張ったところで痛くも痒くもないけれど、俺の方は夕凪が言っていたようにこの座敷牢で狂って行くしかないのか。……いや、その前に東京に戻されるんだろう。

 どうせ東京に戻るのなら。最後にせめて一目、夜霧に会いたい──。

 それからどのくらい経っただろう。時間の感覚は完全に無くなっていた。

 夕凪はあれから姿を見せない。だからとっくに食べる物が無く、胃の中が空っぽになっていた。多分、来たくても来れないんだろう。腹が減って仕方ないけど、夕凪が危険な目に遭うくらいなら暗闇だって空腹だって耐えてやる。

 しかし、そんなふうに強気でいられたのも始めのうちだけだった。

 永遠とも思える暗闇の時間を過ごす中で俺の体は徐々にだるくなり、足の関節が痛くなって、やがて寝た状態から起き上がるのも面倒になってきた。意識を逸らそうとして頭の中でいくら夜霧や夕凪や斗箴のことを想っても、気付いたら自然と食べ物のことを考えてしまう。

 ──朱月。

「………」

 夕凪が言っていたように、いよいよ幻聴が聞こえ始めたのかもしれない。遠くの方で微かに俺を呼ぶ夜霧の声が聞こえた気がした。その声に惑わされないよう、くたびれたお守りを強く握りしめる。

 ──朱月。

 幻聴にしてはいやにリアルだ。いや、だからこそ幻聴と呼べるのかもしれない。俺は畳の上に仰向けになったまま、ゆっくりと首を曲げて格子の方へ視線を向けた。

「朱月。聞こえないのか」

 俺はもう狂い始めてるんだろうか。とうとう夜霧の幻まで見え始めてしまった。だけどこの際幻覚でも構わない。久し振りに見る夜霧は初めて会った時と同じように男らしく、堂々としていた。俺の理想の夜霧の姿だ。都合の良い幻だ。

「聞こえているなら、返事をしろ」

「……ん……」

「驚かすな……手遅れかと思っただろう」

 問いかけに応えてしまったことで、幻が徐々に実体を持ち始める。優しく俺を見つめてくれていたはずの夜霧の目は、今では俺を見下すような呆れた目付きに変わっていた。

「……ほんとに、夜霧……?」

「他の誰に見えるというんだ。しばらく会わない間に、俺の顔を忘れたのか?」

 この声、この表情、喋り方……夜霧だ。もう、間違いない。

「夜、霧……」

「お前が俺の許可なく座敷牢に隔離されたと聞いたのでな、様子を見に来た。それにしても、こんな檻の中に入れられて……いよいよ本物の犬らしくなってきたな」

 畳の上に寝たままの俺の頬を涙が伝った。嬉しくて仕方なくて、これまで俺が溜めてきた夜霧への想いが一気に溢れ出してくる。

「夜霧、会いたかった……。俺、……」

「……話は嵐雪と夕凪から聞いている。俺が部屋に籠っている間、屋敷は大騒ぎだったらしいな。起きれるか、朱月」

「だ、大丈夫……」

 何とか腕に力を込め、ゆっくりと上体を持ち上げる。身体中が痛くて仕方なかったけど、痛みなんて夜霧に会えた嬉しさに比べたら屁でもない。

「雑炊を作らせた。食べられるか?」

「……ありがと……」

 畳の上に胡坐をかいた夜霧が、格子の隙間から俺の方へ茶碗を差し出す。

 満腹とまではいかないけれど、ともあれ食べ物を口にできて少しは落ち着くことができた。夜霧によれば、始めに夕凪がここに来てから三日近く経過しているらしい。監視が付いて自由に動けなくなった夕凪が、俺に食べ物を運んでくれるよう夜霧に土下座をして頼み込んだという。その時初めて、夜霧は俺が座敷牢に入れられたことを知ったのだ。

「全く……。お前はいつも、一人で無茶なことをする」

 格子越しに薄く笑う夜霧に、俺もつられて笑みを浮かべた。話したいことが沢山あるはずなのに、言葉が口を出てこない。

「……すまなかった」

 しばらく無言で見つめ合った後、ふいに夜霧が呟いた。

「俺のせいで、お前は……」

「俺が勝手にしたことだから、夜霧は何も悪くない。むしろ俺の方こそ──」

「違う」

「え?」

 夜霧は真剣な表情で俺をじっと見つめている。辺りが暗いからか、その顔には思わず息を飲むほどの凄みがあった。この世のものならぬ妖の眼差し。例えるなら、そう──紫狼様だ。

 きつく結んだ唇。真っ直ぐに俺を見つめる目。夜霧は何かを決意したような、そんな表情を意識して作っているようだった。

「朱月」

「……うん」

「お前を矢代家で引き取ることになった、本当の理由を話そうと思う」

 ──突然言われて思考が空転し、俺は何度も目を瞬かせた。

 矢代家が俺を引き取った理由。単に、俺の母さんが死んだからじゃないのか。曲がりなりにも親父の血を引いている人間が路頭に迷うなんて本家の名を汚してしまうからとか、母さんを弄んだことへの償いだとか、ただの気まぐれだったとか……そんな理由じゃないのか。

 だけど夜霧の覚悟を決めた強い眼差しを見る限り、そんなちんけな理由では済まないらしい。

 俺は夜霧の覚悟に応えるべく、大きく深呼吸をしてから頷いた。

「分かった。……聞かせてくれ」

「………」

 無言のまま宙を見ていた夜霧が、やがて俺に問いかけた。

「お前、神社に通っていただろう。紫狼様の話はどこまで知っている?」

「一応、資料は読んだけど……。信仰が始まったのは明治頃で、宮若さんじゃなくて矢代家のご先祖様が作った、っていうことくらいしか……」

「紫狼様信仰の開祖は俺の玄祖父だ。つまり俺の死んだ爺様の、更に爺様だな」

「そうなんだ」

「その時代……明治初期から中期の辺り、丑が原村はこの辺一帯でも特に貧しい村だった。凶作が続いて食う物が無く、飢えて死んでいく者も大勢いたらしい」

 静かに、夜霧が語り始めた。

「そこで俺の玄祖父が提案した。『この村だけの神を作って毎日拝めば、きっと雨が降り豊作の時期をもたらしてくれる』。その頃は各地で独自の神を祀り、伝染病の根絶や雨乞いなんかを祈祷していたからな、爺様はどこかでそういう話を聞いてきたんだろう。……だけど飢えてくたびれ果てた村民は、神の話なんてまともに取り合わなかった。そんな中で爺様を信じ協力してくれたのが、今の村長である飯田の爺さんの先祖と、重三郎の先祖だった」

 遠い昔の丑が原村の風景がありありと浮かんでくる。干乾びた大地と、それを更に焦がす太陽。明日のことを心配する前に、今日食べる物の心配をしなければならない村民達。飢えてやせ細った子供、泣くことすら忘れた赤ん坊……。胸が痛んだ。

「……爺様は二人の協力者と共に紫狼様を祀り、拝み始めた。その頃は木で出来た簡素なご神体だったそうだ。どうして狼だったのかは未だに謎とされているが……。とにかくそれからしばらくして、飢饉は終わった。紫狼様は村の守り神となり、爺様は英雄になった。それが矢代家の始まりで、その繁栄は今日まで続いている」

「……そうなんだ。でも矢代家の歴史と俺が引き取られた理由と、どういう関係があるんだ?」

 思わず口を挟むと、夜霧がほんの少しだけ俯いてぼそりと呟いた。

「その力が強大すぎたために、信仰に歯止めが利かなくなったんだ」

「え?」

「紫狼様は明治の時代から現代に至るまで、事あるごとに引っ張り出されて拝まれ、崇められ、贄を捧げられてきた。村の行事には勿論、人探しやちょっとした占いをする時にさえ紫狼様が遣われている。……そして、矢代家の頭首交代時にも」

「だって村にとって大事な神様なんだろ。そう思えば、別におかしなことじゃ……」

 言いながら、俺は額に脂汗が浮かぶのを感じた。夜霧が口にした「贄」という言葉に嫌な予感がしたからだ。

「紫狼様信仰を編み出した矢代家の頭首交代時には、毎回紫狼様に捧げる生贄が用意される」

 静かに、素っ気なく、夜霧が俺の予感を現実にしてゆく。

「お前はそのために本家が引き取った。紫狼様に捧げる生贄として」

「………」

 何も言えなかった。ショックも恐怖も怒りも通り越して、ただただ茫然とするしかなかった。だってそんなの普通じゃありえない。生きた人間を生贄にするなんて非現実的なことが、この平和な時代にひっそりと行われているなんて。

「お前は仮にも親父の息子だから、血筋も申し分ないということだ。これほど矢代の血が濃い贄は初めてらしいが、それだけ親父達は新頭首となる俺に期待しているらしい……」

「俺、もしかして殺される……?」

 掠れた声で問うと、夜霧が目を伏せてかぶりを振った。

「殺されはしない。──が、それと同等の苦痛は受ける」

「……言っていい。何をされるんだ」

 夜霧が辛そうに顔を顰めた。膝の上で握りしめた拳が微かに震えている。

「……俺が五代目頭首になる当日、新しい矢代家の繁栄を願う儀式が執り行われる。その時に生贄は古い時代の厄を全て押し付けられ、徹底的に穢れた者として扱われる。祭壇の上、選ばれた村の男連中によってお前は、明け方近くまで……嬲られ尽くされる」

「………」

 穢れた者。

 今、全てを理解できた気がした。

 飯田村長や重役達にとって俺は穢れた者だったんだ。だから初めて会った時からずっと、彼らは俺に冷たかったんだ。汚い物でも見るかのようなあの目付き──無理もない。俺は村の穢れを背負うためにやって来たのだから、あんな目で見られるのは当然じゃないか。

「………」

 頭上で、ジジ、と虫の音がした。暗闇の中、必死に光を求めて飛ぶ虫の音だ。その行く先には絶望しかないのかもしれないのに、それを知らずに飛び続ける虫の音だ──。

「このことは親父と村長、一部の重役しか知らない。儀式に参加する男達には、莫大な報酬と引き換えに厳重な箝口令が敷かれる。村にとって最大の極秘事項だ」

「……夕凪は……? それを知ってて俺を連れて来たのか……?」

「誓って言うが、夕凪は十五年前からずっと何も知らされていない。知っていたなら村の全てを敵に回してでも、お前を連れて逃げていただろう。無論、嵐雪や春雷もこのことは知らない」

「夜霧は」

「………」

「夜霧は、知ってたの……?」

「……知っていた」

 夜霧が伸ばした手で格子を掴んだ。