マイ・スィート・ショコラ

 今まで嫌なこと、悲しいこと、いっぱい耐えてきました。
 死にたくなったことも、夜通し泣いたことも、数え切れないほどたくさんありました。
 誕生日もクリスマスも我慢したんだ。
 だから神様、お願いです。
 どうか今日だけ、たった一日だけ。世界一の幸せを僕にください──。

 とにかく手先が不器用で、工作も家庭科も大嫌いだった学生時代。男だから料理が作れなくても構わないし、今の時代は食べ物なんて、コンビニで何でも買える。俺は十九歳にして包丁も握ったことがなく、フライパンや鍋に火をかけたこともない。
 それでも頑張ったんだ。台所をめちゃくちゃにして、何回も火傷して指を切って、挫けそうになったけど頑張ったんだ。大好きな彼のために。


 二月十四日。
 俺と雀夜サクヤの、初めてのバレンタインデー。
 雀夜がそういうチャラついた記念日を鬱陶しがっているのは知っている。クリスマスも結局は一緒にいたけれど、別段いつもと変わらない一日だった。チキンとブッシュ・ド・ノエルを食べてクリスマスプレゼントを交換して──そんな漠然としたクリスマスへの憧れと期待は全て裏切られ、仕事が終わる時間もバラバラだったから夕食すら一緒に食べられなかったのだ。
 クリスマスはもう良い。別にクリスチャンじゃないし雀夜と出会う前までだって大して楽しみなイベントではなかった。
 だけど、バレンタインデー。
 せめて今日は。今日だけは。


「おかえり! なあ雀夜、今夜は空けといてくれたんだろ。俺も予定入れてないから絶対絶対、二人きりで過ごそうな!」
「失せろ」
 ……怖い。流石に一ヶ月前から毎日同じことを言ってたから鬱陶しがられてるか。


 午後二時、仕事場から帰宅した雀夜は心底から下劣な物を見るような目で俺を一瞥し、さっさとシャワーを浴びに風呂場へ行ってしまった。
 冷たくて意地悪でクールで愛しい俺の雀夜。去年の十二月から雀夜のこのマンションで一緒に住み始めて、これまで何回も何十回も肌を合わせてきた──プライベートでも、仕事でも。


 俺達が所属している事務所「東京ブレイン・コミュニケーションズ」は主にゲイ向けアダルト動画の撮影・配信を行なっていて、まだまだ新人扱いの俺とは逆に、雀夜はそこのトップモデルだった。身長体型、顔立ち、セクシーな声と指先、ベッドでの振る舞い、とろけるような愛撫と完璧な造形の、……とにかく俺の好みドストライクのハンサムな二十五歳なのだ。


「さ、雀夜。仕事お疲れ様。新しいパンツ置いとくよ」
 脱衣場に洗濯済みのタオルと下着を用意して声をかけると、浴室の中から「ああ」と素っ気ない声が返ってきた。それだけで分かる。……今日の雀夜は機嫌が悪い!
 動画では俺と雀夜は「カップル」として出演している。最近では多くのAVメーカーがそういう売り出し方をしているが、とにかく俺と雀夜のシリーズは(主に雀夜のお陰で)かなりの売上を叩き出していた。
 教師もの、SM調教もの、近親相関、普通の恋人──俺は雀夜の生徒であり奴隷であり弟であり、健気な年下の彼氏だった。
 ちなみにカップルではあるけれど、毎回二人で撮影する訳ではない。色んな場所やシチュエーションでオナニーをする「秘密シリーズ」や、モデルとセックスしているような気分になれると評判の、視聴者目線で撮影する「ハメ撮りシリーズ」、特殊な性癖を持つ人用の「寝取られシリーズ」など、相方無しで行なう撮影は幾らでもある。


 今日は雀夜が一人で撮影する日で、俺は一日休みだった。特別なバレンタインデーだから、前もって休みを入れておいたのだ。
 雀夜の仕事も昼までの予定だったから、わくわくしながら待っていたのに。

「雀夜、昼飯食べた? 雀夜の好きなシーフードパスタとサラダ、出前してもらったんだよ。温めたら食えるけど、温めようか?」
「……腹減ってねえ」
「そ、そっか。じゃあ疲れただろ、昼寝とかは?」
「眠くねえ」
 雀夜はリビングのソファで煙草を吸ってぼんやりしているだけで、俺のことなどまるで気にしていない。何か怒らせるようなことをしてしまっただろうか。いや、今朝送り出した時は普通だった。いつも通り無愛想ではあったけど、怒ってはいなかった。
 だから結局、仕事中に何かあったのだ。
「………」
 沈黙が気まずい。


桃陽ももはる
「は、はいっ」
 と思ったら、雀夜が俺の名前を呼んでくれた。それだけで嬉しくて堪らない。幸せ過ぎて泣いてしまいそうだ。
「指、どうした」
 雀夜の視線が俺の手元に向けられる。彼が言っているのは、俺の左手人差し指に巻かれた絆創膏のことだ。
「何でもないよ、ちょっとした切り傷」
「……そうか。悪かったな」
「何が?」
「今夜は仕事になった」
「え、……」
 ぽかんと口を開けたまま固まる俺に、雀夜が説明し始めた。


「前に相手役のモデルが怪我して延期になってた動画、夕方から撮影するらしい」
「怪我したモデルって、リョウタのこと? フットサルやってて足をどうこうしちゃった、っていう……」
「そうだ。そいつが昨日復帰したらしいんだが、時間取れるのが今日だけなんだとよ。元々大学卒業までの契約だったらしいが明日からは学校のことで忙しくなるんだと」
「相手役変えて別の日に撮ればいいじゃん、そんな企画。何で雀夜がリョウタに合わせなきゃならないんだよ」
 考える前に口が動いてヤバいと思ったけれど、結局言い切ってしまった。
幸城ゆきしろの考えだ、文句言っても仕方ねえだろ」
 俺達の社長兼監督の、松岡幸城さん。この人が下した決定は誰も覆すことはできない。
「……そうだけど」
 拗ねても雀夜の表情は変わらない。俺は仕方なくソファの端に腰掛けて小さく息をついた。


 仕事なのは仕方ない。バレンタインデーに雀夜が仕事とはいえ他の男とセックスするのも、何とかギリギリ我慢できる。そんなの承知で惚れているんだ。それに俺達は別に、付き合っている訳でもないし。
 バレンタインデーは百歩譲って諦める。指を切ってまでチョコレート作りを頑張ったけど、所詮はただのチョコだ。今渡しても明日渡しても構わない物だ。そこに特別性は感じていない。
 だけど今日は俺にとって特別な日だったんだ。
 二月十四日──俺の誕生日。雀夜には教えていなくて、チョコと一緒に打ち明けようと思っていたのに。


「………」
「悪かったな、休み取れなくてよ」
 ハッとして顔を上げ、隣の雀夜に向かって首を振る。
「い、いいよ別に雀夜は悪くないしさ。それに俺はほら、毎日雀夜と一緒だし……って、勝手に俺が押しかけてるだけなんだけど」
 雀夜は悪くないとはいえ、謝罪を受け入れてしまったことで今夜の予定は完全に白紙になった。あーあ、と心の中で溜息をつく。今日のために美容院も行ったしメンズエステも行ったんだけどな。
「で、何時頃行くの?」
「六時だ」
「あと二時間半くらい? 仮眠した方がいいんじゃないの」
 雀夜がソファの肘掛に頬杖をつき、俺の方をちらりと見た。
「………」
 ただもう目が合っただけで、つま先から脳天までとろとろに蕩けてしまう……。