となりのナハトくん -2-

「隣の部屋のひと、初めて声聞きました。いるの知らなかったです」
 阿呆なことを考えていたら、ヘルムートが俺を抱きしめたまま視線だけでちらりと左の壁を見た。

「ああ、何か引っ越してきたのかもしれねえな」
「……千代晴、隣のひとの声聞きながらエッチな顔してませんでしたか」
「してねえ、してねえ。ていうかまだ早いからもう少し寝てろ」
 しれっと嘘をついてヘルムートを引き剥がし、ベッドの上に身を横たえる。どうやら隣も終わったようだし、これでまた無事眠れそうだ。

「おれもここで寝ます」
「狭いだろうが。落っこちるぞ」
「千代晴にくっつくから平気です」
 俺の胸に顔を埋め、ぴったりと密着してくるヘルムート。その顔は幸せそうだが、俺にとっては生殺し以外の何物でもない。

「そうくっつかれるとムラムラすんだけど。……前みたく口でイかせてやろうか」
「すう……すう……」
「も、もう寝てやがる……」
 仕方なく俺も目を閉じ、無理矢理に意識を落とそうと頭の中で羊を数え始めた。

 結局あれから殆ど眠れず迎えた朝、午前八時。
「千代晴、朝ご飯の時間です!」
「……歯、磨いたか?」
「千代晴がイチゴ味の歯磨き買ってくれましたから、ばっちりですよ!」
 ニニッと白い歯を見せてくるヘルムートは爽やかだが、俺の方は完全に寝不足だ。今日は昼から出勤だというのに、しくじった。

 ──全部隣の部屋のせいだ。

「ふあ……ねみぃ。……ゴミ出してくるから、朝飯ちょっと待ってろ」
「はいっ」
 今日はプラスチックやビニールなどの燃えないゴミの日だ。ヘルムートに包丁やコンロには触らないよう念を押し、俺はぼんやりとゴミ袋を手に玄関を出た。
 アパートの住人が使うゴミ捨て場は、敷地を出て十秒の場所にある。部屋着で寝癖だらけのまま行って帰って来ても気にならない距離だ。

「よっと」
 袋をゴミ捨て場に置いて戻ろうとした時、同じアパートの方向から一人の男が歩いてくるのが見えた。俺と同じでゴミを出しに来たのだろうが、この暑いのに黒いロングのダウンジャケットを着ていて、その異様な出で立ちに思わずぎょっとしてしまう。

「おはようございます~」
「お、おはよう……」

 変わっているのは服装だけじゃない。流行りなのか個性なのかは分からないがその黒髪は左右でアシンメトリーになっていて、長さが全く違う。耳や唇、眉毛にまで光るピアス。更にはカラコンなのか目の色も真っ赤だ。おまけに真正面から俺を見ているのに焦点が合っていない。

 それは見るからに「デンジャラス系」の男だった。

「お兄さん。背、デカいっすねぇ」
 男がニマッと笑って俺を見上げた。俺が並外れてデカい訳じゃない。男の身長は大体ヘルムートより少し高いくらいで、俺と頭一つ分違うだけだ。
「にしても、暑いなぁ。ボクもう汗だくびっしょり」
 手で自分を仰ぎながら男が更に笑う。これはもう、ツッコミ待ちなのだろう。

「いや暑くないすか、それ。減量中ですか?」
 一応訊いてみると、男が首を横に振って「いいえ」と俺の前に手のひらを突き出した。
「ボク忍びの者ですんで、こうして自分の正体を隠しているのです」
「ふうん……?」
 よく分からないが、ダウンの中は人に見せられない格好ということか。寝起きのパンツ一丁で着替えるのも面倒だから、取り敢えずダウンで隠しているということだろうか。
 その面倒臭いという気持ちも分からないでもないから、別に構わない。むしろ謎が解けてすっきりした気分だ。