19

 会社に戻った俺は、事務所を通り越してそのまま会議室へ連れて行かれた。
 会議室とは名ばかりで、長テーブルの周りに六脚の椅子があるだけの狭い部屋だ。そのうちの二つに加藤部長と大野さんが座っていて、俺はドアの前に立たされたまま叱られた子供のように俯いていた。

「君には呆れたよ。まさか俺を殴った上、無断で会社から逃げ出すとはな。まるで不良学生だ」
 部長の辛辣な言葉が俺の胸を抉る。
 逃げ出した。確かにそうだ。周りの視線に耐え切れなくて、俺はあの場から逃げたんだ。
 だけどこうして戻って来た。もう、逃げるもんか――。

「殴ったことはすみませんでした。反省してます」
「他に言いたいことはあるか?」
「俺は――」
 もう逃げない。俺の将来、未来から目を背けない。
「今日限りで退職します」
 ふっと、部長の顔が柔らかくなった。俺の口から辞めると言わせたのだ。これで俺を解雇した理由を、上に報告せずに済むと安堵している。

「――ですが、部長。貴方に一つだけ謝ってもらいたい」
「何をだ」
「混一を侮辱したことをです」
「混一?」
「金次第で男と寝る、汚らわしい人間だと言ったことを。この場で取り消して頂きたい」
 部長が鼻で嗤った。
「本当のことじゃないか。正論を取り消すなんて出来やしないよ」
「あいつが何を思って生きてるか……それを知らずに貶すことなんて許されない。あいつだけじゃない。誰も他人の人生を貶す権利なんか無いんだ」
「何を熱くなっている? まさか君は本当にその、男の売春婦に惚れてるなんて言うんじゃないだろうな」
「惚れてる。だからこの件に関しては、絶対に退けない」
 大野さんが何か言いたげに、だけど黙って俺を見ている。

「飯島君。……君は、男同士の恋愛なんて意味があると思うのか?」
「大層な意味なんて無い。それは男女の恋愛だって同じことです」
「そんなことを言ってるんじゃない。男同士で付き合うなんて、そんな非生産的なことが世間的に考えて許されると思ってるのか」
「男女の不倫よりかはずっと清いはずです」
 部長の表情が翳る。そんなつもりは無かったけど、どうやら効果があったようだ。
「……もういい。お前のような奴の顔は二度と見たくない。同じ男として不愉快極まりない存在だ、さっさと売春男の元にでも行け」
「っ……」
 俺は強く拳を握り、目の前の男を睨みつけた。
 この男が半死の状態になろうが、俺に前科が付こうがどうなったっていい。
 今の俺にとって、混一の名誉を守ることが全てなんだ。最後にもう一、二発殴って、意地でも謝らせてやる――

 思ったその瞬間、俺の背後で音も無くドアが開いた。

「え――」
 そして、聞こえた。あの笑い声が。
「……ふふ」
 振り返るまでもない。これは夢か。
「混一……」
 どうして、ここに混一が。

「失礼します、部長。お客様がお見えになりました」
 混一の後ろに立っていた人間がそう言って、混一を会議室の中へ入れた。
「何? 今日は来客の予定なんてないぞ」
 訝しがる部長とは裏腹に、大野さんの顔は極限まで青ざめている。突然現れたこの男が誰なのか、彼女は嫌と言うほど理解しているのだ。

「突然押しかけてしまって申し訳ありません、部長……」
「だ、誰だ、君は」
「混一色にございます。部長の言うところの、えっと……そう、男の売春婦です」
「……な……」
 驚いている。混一の美しさに。
「ほ、混一。何しに来たんだお前っ……」
「浩介がまた逃げないように、見張りに来た」
「俺は逃げないって!」
「暴力に頼って逃げようとしてたんじゃない? すごい殺気出てたよ」
「そ、それは……」
「どこまで話が進んでるんでしたっけ。確か部長さんが、浩介のことを不愉快極まりないって言ってたとこでしたよね……」
 混一が同意を求めるように、部長に向かってにっこりと笑った。けれど、その鳶色の瞳だけは微塵も笑っていない。
「あ、ああ……。それで飯島君に、出て行けと命じたところだ」
「世間的に考えて男同士の恋愛が間違ってる、とも」
「ああ、言った。実際そうだろう」
「ふふ。確かに間違ってるかもね。だからこんなに楽しくて、スリルがあって、堪らないんだ」
 そう言って混一が俺の胸に手を置いた。こんな時に何だけど、挑発的に笑う混一は本当に美しかった。

「で、出て行け! 全く、汚らわし――」
「俺達はそうやって昔から虐げられてきた。男女関係なく、同性愛者だからって理由だけで迫害されていた時代もある」
「………」
 俺は突然のことにただただ茫然としてしまって、何も言えないまま混一の横顔を見つめていた。
「貴方達はいつも真剣な顔で差別は間違ってると言う癖に、浩介や俺のことを汚らわしいと、どうして言えるのかな」
 その声も、表情も視線も至って穏やかだった。だけどそれは、混一がただ冷静に相手と向き合っているという意味じゃない。俺の胸に置かれた手は、僅かに震えていた。
 混一は闘っているんだ。今にも爆発してしまいそうな怒りや悲しみ、恐怖や重圧と。誰の前でも決して見せることのなかった、複雑で、どこまでも混沌とした、そんな多くの感情と。

「そんな話は今関係ないだろう! ――もういい、さっさと二人ともここから消えろ!」
 混一が俺の手を取り、部長に向かってはっきりと告げた。
「浩介をこんな場所にいさせられない。俺が引き取らせて頂きます」
「出て行け!」
「ふふ。もう行こう、浩介。ご飯食べて帰ろう」
「ん」
 混一の後に続いて会議室を出る。――が、ドアを閉じようとした、その瞬間。
 俺は混一の手を放し、部長を振り返った。

「浩介……?」
「どうした、まだ何か用か?」
「ずっと我慢してたけど、あくまでも俺達を非難するのなら……最後に俺も、敢えて差別発言をさせて頂きます」
「なんだ、俺はやましいことなど何も無い。言ってみろ」
「ふ、……」
 混一の不敵な笑みを真似したつもりだった。多少引き攣っていたかもしれないけれど、そんなことはこの際どうでも良い。
 俺は出来るだけ静かに、だけと大きく息を吸ってから口を開いた。
「あんたが何を言おうと俺達は間違ってなんかいない。だから……くたばっちまえ、ヅラ野郎!」
「なっ……」
「行くぞ混一!」
「こ、浩介っ!」
「待て、貴様っ……」
 俺は混一の手を引いて会議室を飛び出し、唖然とするスタッフ達の横をすり抜け、そのまま全力で事務所を出た。

 もつれ合いながらエレベーターに乗り込み、閉ボタンを連打する。
「はぁっ、はぁ……浩介、……」
 俺は息も整わないうちに、伸ばした両腕で混一を強く抱きしめた。
「き、緊張したぜ……」
「俺もびっくりした……。ていうか、……向こうが一番びっくりしてたね……」
 頬を赤くさせた混一が、俺の胸から顔を上げて笑った。
「浩介。……最後の最後、すごいスッキリした!」
「だ、だけどまた逃げちゃったよな……ごめん」
「いいんだよ、この場合は勝ち逃げだから!」
 外に出た俺達は、まだ明るい空の下、本社ビルと隣のビルに挟まれた狭い路地を並んで歩いた。

 さっきまでの興奮が収まってからは、互いに無言だった。
「………」

 俺の歩幅。混一の歩幅。
 少しずつ、その距離が開いてゆく。

「どうした?」
「………」
 遂には立ち止まってしまった混一が、ゆっくりと冬の空を見上げた。

 雲一つない真っ青な空。二つのビルに挟まれた縦長の空。その下で立ち尽くす混一の姿は、こんな時でも、……悲しいほどに美しかった。
「……う」
「混一……」
「……っ、く……」
「………」
 その瞳から零れた大粒の涙が、混一の頬を滑り落ちて行く。
 考えれば当然だ。傷付かない訳がない。
 ――汚らわしい存在。
「混一、泣くな」
 誰よりも、ある意味では空を舞う鳥よりも自由な混一。俺はずっとそう思っていた。
「………」
 本当は違った。
 混一は完璧なんかじゃなかった。
 俺と同じ……いや、それ以上の大きな悩みや不安を抱えて生きてきた普通の人間だ。

 混一が大切にしている世界の表面には、これまでの人生で負ってきた傷が数え切れないほど刻まれている。それでも必死に自分を守り、前を向き、懸命に生きてきた。
 今までたった一人、何度こうして泣いてきたんだろう。
 狭い空に向かって泣き叫ぶ混一にかける言葉なんて、何も無い。彼の計り知れない悲しみや絶望を受け入れることはできても、本当の意味で救える者なんていない。

 そうだ。俺以外は――。

「大丈夫」
 俺は力無く笑って混一の頭を撫でた。
「昔と比べたら、環境はだいぶ良くなってきてる。時代はどんどん変わってるんだ、何も気にすることない」
「浩介……」
「想像してみろ。誰に気兼ねすることなく、こんなビルの間じゃなくてもっと広い空の下で、手を繋いで歩く俺達をさ。周りにじろじろ見られて混一が恥ずかしくなっても、俺、絶対放さねえぞ」
「……ほんとに」
「前に混一が言ってた『同じ景色を見れる人』って、そういうことだろ。男女の恋人同士みたいに……それ以上に、俺はどこででも堂々とお前を愛してやる。……俺達は絶対に、間違ってなんかいないんだ」
「っ……」
 混一が泣きながら俺にしがみついた。
「浩介、大好き……! 放さないで。俺のこと、放さないで……!」
「放すもんかよ。大丈夫だ、辛くても怖くても俺がついてる」
 混一の柔らかな髪を撫でながら、俺は震える唇を強く噛みしめた。